ミスボン シデク
 
DATUK MISBUN SIDEK
出生 1960年2月17日生。
マレーシア,スランゴール州,バンテン市出身
役職 *プロバドミントンクラブ『ヌサマハスリ』創始者
*同クラブヘッドコーチ(1996年〜2002年)
*同クラブ相談役(2003年〜現在)

*マレーシアナショナルチーム シングルスヘッドコーチ
(2003年・2004年)
*マレーシアナショナルチーム シングルスコーチ
(2005年・2006年)
*2007年現在 リー=チョンウェイ、ハフィズなどマレーシアのトップシングルスを指導。
*2008年8月”Datuk”という称号を政府から与えられる
misbunsidek007@yahoo.com.my
主な戦績
1981 ドイツオープンシングルス優勝
マレーシア選手権シングルス優勝r
1982

スウェーデンオープンシングルス優勝
ワールドカップシングルス準優勝
全英シングルスベスト4

1983

ドイツオープンシングルス優勝
スウェーデンオープンシングルス優勝

1986

全英シングルス準優勝

1987

台北オープンシングルス優勝
コニカ杯シンガポールオープンシングルス優勝

1988 ワールドグランプリシングルス準優勝
2002 世界マスターズ35歳代団体・ダブルス・シングルス3冠。
マレーシア体育協会指導者表彰受賞。
 ミスボン=シデクはマレーシアの国民的英雄で知らない者はいないほどである。マレーシアバドミントンの象徴のような存在で、あたかもバドミントン=ミスボンとしてマスコミでは捉えられている感じである。
 彼の戦績は上記の通りでそれほどずば抜けた戦績を残したわけではない。しかし、彼の意外性のあるショット、トリッキーなショットは観客を魅了し、マレー民族の誇りとまで言われるようになり、マスコミで騒がれた。彼はある時は仙人刈、ある時はモヒカン刈と見てくれもスター性があり、また、気を取り込む呼吸法なども観客を惹きつけた。
 選手を引退した後は、プロバドミントンチーム『ヌサ マハスリ』を主宰し、多数の選手を育ててきた。弟のラシド=シデク、ロスリン=ハシム、ハフィズ=ハシムなどの世界のトップスターとなった選手たちがそれである。
 ミスボンの弟たちもマレーシア代表として活躍した。次男ラジフ、三男ジャラニ、四男ラーマン、五男ラシドであり『シデク兄弟』として世界でも恐れられた。マレーシア国立美術館の入り口の上にはミスボンを中心にシデク五兄弟の肖像画が展示されている。バドミントン選手の肖像画が国立美術館に飾られているのは珍しい。(実際はシデク兄弟は6人で、六男のシャハリザンは現在19歳でスランゴール州のジュニアとして活躍しているもののまだ世界の舞台には登場していない。さらに姉妹の若干名も輝かしい戦績を残している。)

私の目から見たミスボンの偉大さ。
 「アッラーが自分に与えてくれた人より優れたものは、伝える義務がある。」
 イスラム教徒は常にアッラー(神)の存在を意識し、アッラーとの対話を欠かさない。ミスボンもまた信仰篤きイスラム教徒であり、イスラムを実践している。イスラム諸国で名を成す偉大な人物のほとんどは信仰も篤いといえる。マレーシアにこの人ありと世界の政界で存在感を示し続けてきた偉大なマレーシアの指導者マハティール=ムハンマド元首相も信仰篤き人であった。
 信仰は、信念となり、見返りなどを期待せずひたすら活動しようとする。それの積み重ねが結果として偉大な功績を残すことになるのである。ミスボンも同じである。早朝日の出前の礼拝が終わると、すぐにコートに入り指導を始める。その時刻はなんと午前6時のことである。それから、午前の練習が終わる12時まで、6時間もの長い間に、選手は2時間ごとのセッションの度に代わるものの、ミスボン自身はコートに入りっぱなしである。40台後半になっている中年にとっては苛酷な練習を、大声を張上げながら、いつもコート内で動いている。彼に休憩はない。自分は伝えなければならない。金のためでも名誉のためでもない、ただ、アッラーが自分に授けてくれた人より優れたバドミントンの技術を、ひたすら伝えるためなのである。
 同じ目線で教える
 通常指導者とは、ナショナルチームを教える者は、ナショナルレベルしか見ない。高校の指導者、は高校生のみ、中学の指導者は中学生のみ、社会人クラブを運営するものは適度のアドバイスを社会人に与えるのみ、また、ジュニアの指導者はジュニアしか教えない。どの指導者もプライドを持ち、指導している。
 ミスボンはナショナルチームの指導者である。年によって立場は変われども、誰が見てもマレーシアで1、または世界bPの指導者である。あるいは世界トップクラスの指導者であるといって異論はないだろう。
 この世界トップクラスの指導者とは、当然、自分のところにやってくるプレイヤーとは、既に世界のトップか、またはトップを目指すジュニアくらいでは無かろうか。これからバドミントンを始めようとする初心者に最初から手ほどきをする指導者はいないのではなかろうか。また、そういう世界トップクラスの指導者は、風格があり、ときには腕組みをして、選手を威圧しながら指導しているのが一般的なイメージではなかろうか。
 ミスボンは、初心者をも指導する。サリム=サミオンはミスボンにラケットの握り方から教えてもらって今では国際選手になっている。ハフィズにしても、その他多数の現在のヌサマハスリのジュニアの選手にしても多かれ少なかれほぼ同様である。ミスボンとは、初心者から世界のトップクラスまで教えれる珍しい指導者なのである。それも初心者を世界のトップクラスまで実際に引き上げた実績のある指導者なのである。その教え方はどうなのだろうか。ミスボンが幼児を教えている珍しいスナップがある。
幼児を教える時はミスボンは実際に目線を同じ高さで教えているのだ。決して子供を見下すようにしてアドバイスはしない。これがミスボンの自然体である。
 2006年日本で開催されたトマス杯で、マレーシアチームは準決勝でデンマークに2−3で敗れた。そのうちの3敗はミスボンが担当するシングルスであった。特にマスコミからはハフィズのやる気なさ、不甲斐なさを書き立てるものも少なくは無かった。「人は知らないけど、ハフィズは足が痛かったんだ」と私に漏らしてくれた。こういった場合、ミスボンは選手の気持ちになってかばうことが多い。
 一方普段の練習は厳しく、彼が体育館に居るのと居ないのとでは、館内の雰囲気が変わるほどだ。それほど練習には厳しい。しかし、それはプレイヤーを思ってのことなのだ。
 
どうして国民的英雄になったのか?
 ミスボン=シデクの名前を知らないマレーシア人は居ない。知名度ほぼ100%で、首相の次に有名なのがミスボンであると言われるくらいだ。ところが、彼の戦績を見てもらいたい(上↑)。確かに世界のランキング上位に位置していたことは間違いないが、主な戦績としては全英の準優勝くらいである。この戦績だと、3年連続で全英決勝に進んだタン=アイフワン(Tan Aik Huang)、2003年優勝した教え子ハフィズに遠く及ばないし、また、ハルトノを苦しめたパンチ=グナラン(Punch Gunalan)、フー=コッキョン(Foo Kok Keong)、オン=ユーホック(Ong Ewe Hock)、シデク兄弟5男ラシド(Rashid Sidek)などミスボンと同じく準優勝した選手はざらに居る。また、国内で最も盛り上がるマレーシアオープンを見てみよう。五男ラシドは3年連続優勝、現在のマレーシアbPリー=チョンウェイも3年連続を含む4回優勝に輝いているほか、タン=アイフワン(Tan Aik Huang)、オン=ユーホック(Ong Ewe Hock)も2回優勝している。ところがミスボンには優勝はないのである。ダブルスに目を向けると、次男三男のペアであるラジフ・ジャラニはマレーシアオープン2年連続優勝のほか、全英、世界選手権でも優勝している。こうみてみると、シデク兄弟の中でも、次男ラジフ、三男ジャラニ、五男ラシドの方がはるかにすばらしい戦績を収めているのだ。それでも、シデク兄弟というと、人々の間では長男『ミスボン』が圧倒的に人気があるし、存在感が格段に大きい。なぜなんだろう?
 時代を追ってみよう、エルランド=コップス(デンマーク)が世界チャンピオンとして君臨したのは1960年代。その後、タン=アイフワン(Tan Aik Huang)という中国系マレーシア人の選手が活躍し、全英も1度優勝した。その後、バドミントンの神様とまで言われ、数えるほどしか負けたことのないルディー=ハルトノ(インドネシア)が登場し全英7連勝をしハルトノ時代を築く。その時、ハルトノの影に隠れて負け続けたのが当時のマレーシアチャンピオン パンチ=グナラン(Punch Gunalan)であり、ちなみにグナランと同様ハルトノに負け続けていたのが当時の日本チャンピオン小島一平である。今の私の世代のプレイヤーはこの状態を見てきた。そして、時代の主役はリム=スイキン(インドネシア)と中国の選手たちに移り始めた。マレーシアでは、パンチ=グナラン(Punch Gunalan)のあと、ずば抜けた選手は出てきていなかった。
 1976年トマスカップ予選、マレーシアは若手選手主体で構成し、ベテラン小島、新チャンピオン銭谷を有する強力日本チームに対して、6−3で勝ちを収めている。私はその時マレーシアに留学しており、その対戦を日本チームのベンチで応援していた。マレーシアチームの第三シングルス ジェームス=セルバラジ(James Selvaraj)は個人的に知っており、マレーシアのジュニア大会で優勝した選手だが、まだ世界に立ち向かうには役者不足だったはずで、「お前が勝てる相手はいないよ。」などと言っておいたが、なんとセルバラジは日本から1勝取ってきた。さて、マレーシアチームは弱小ながらもあれよあれよで勝ち上がり、決勝まで進んだ。このときミスボンは、まだ16歳でバドミントン界には存在しなかった。
 その後ジェームス=セルバラジ(James Selvaraj)はマレーシアのシングルスチャンピオンに成長する。当時の主力選手としてはソー=スューリョン(Saw Swee Leong)、パー=アーファー(Phua Ah Hua)などがおり、世界のトップには及ばないレベルでのどんぐりの背くらべ状態だった。スター不在のマレーシアであり、インド系のセルバラジ、中国系のソーとパーがしのぎを削っていたのだった。
 そういう、谷間のような時代が続いたのち、めずらしくマレー系の選手が出てきた。それも3人次々と出てきたのだ。シングルスに長男ミスボンが、ダブルスに次男・三男のラジフ・ジャラニが頭角を現してきたのだった。
、ミスボンの話の中に先述の3人の名前がよく出てくる。とくにセルバラジはミスボンの目標となる選手だった。「私はセルバラジを倒してマレーシアのチャンピオンになった。」と何回も聞いた。その当時セルバラジと私が知り合いであったというのも奇遇で、当時の話を二人で懐かしくすることがよくある。
 さて、本題にもどろう。マレー系のミスボンは、モヒカン刈りで登場し、気を取り入れるような独特な呼吸法、相手からノータッチエースを取れるチョップショットとリバーススマッシュを武器に、観客を魅了した。彼のプレースタイル自体が人々の心を惹きつけるものがあったし意識的にアピールしていたと思われる。経済面で中国系に支配されているマレーシアに、マレー系も誇れるものができた。ミスボンの活躍はマレー系社会への励ましでもあったと言うことができる。マレー系の人々にとっては、待ち焦がれていたヒーローの誕生なのである。あれよあれよの間に国民がみんな注目するようになり、一躍国民的ヒーローにのし上がった。
 その後、弟達が続き、ロスリンやハフィズといった教え子たちが続いた。後に続くものは確かにミスボンの成績を上回ったが、それは彼が築いた指導者としての実績なのである。
ナショナルチーム練習場でリー・チョンウェイにアドバイスをするミスボン。2007/6/18撮影 練習後ミスボン邸で食事をとるナショナルメンバー。何かお祝い事などがあればよくミスボンは食事を振舞う。写真の右端がミスボンの末っ子と遊ぶリー・チョンウェイ。チョンウェイは意外と子供が好きなのだ。 2007/10/16撮影